HELLO!
天使(あまつか)とらぞうです^^
今回は小笠原諸島・父島で参加した【戦跡ガイド板長の戦跡ツアー】についてお話したいと思います。
小笠原諸島・父島の戦跡ツアーに興味がある方や、小笠原諸島・父島に旅行を計画している、または今後行ってみたいと思っている方々の参考になれば幸いです。
現在の日本国内では、壕や大砲、戦闘機の残骸などの兵器類がそのまま残っている場所はもうほとんどないそうです。
そんな貴重な戦跡が見られ、板長さんが語るノンフィクションの世界。「戦跡から考える日本とは?」が一杯詰まったツアーでした。
小笠原諸島・父島とは
2011年6月、小笠原諸島は世界自然遺産に登録されました。
小笠原諸島は東京から南に約1,000㎞、北から聟島列島、父島列島、母島列島、火山(硫黄)列島、沖ノ鳥島、南鳥島、西之島までを含む大小30ほどの島々からなる海洋島です。
大陸と一度も陸続きになった事がない為、多くの固有種が現存しています。
小笠原諸島は1593(文禄2)年、現在国宝「松本城」または「深志(ふかし)城」の城主であった小笠原 長時さんの曾孫(ひまご)にあたる小笠原 貞瀬さんが発見したと伝えられているそうです。
彼が小笠原諸島を発見し、約240年後の戸時代1830(文政13)年頃、ようやく人々が小笠原諸島に住むようになったようです。
この最初の定住、開拓者が欧米人5人と太平洋諸島民を含む約20人程で、小笠原諸島という有人島を造り上げていったそうです。
それから、約50年後の1876(明治9)年、国際的に小笠原諸島が日本の領土として認められました。
しかし、更に約65年後の第二次世界大戦では、小笠原諸島は米軍(アメリカ軍)との戦争の舞台となります。
父島、母島は激しい空襲を受け、硫黄島では大激戦の上、多くの人が犠牲となったようです。
現在も日本軍の築いた数多くの防空壕や大砲など戦争の跡が残っています。
戦後は米軍の占領下におかれ、23年後の1968(昭和43)年に小笠原諸島は日本に復帰し、父島と母島の島民の帰島が許されたそうです。
1979(昭和54)年4月に村政が確立し、自然と共生する村を目指して、新しい村づくりがスタートしたようです。
歴史と自然を大切し、未来へ残し伝える小笠原諸島!
だね!是非皆様に小笠原諸島の事知ってほしいよね^^
因みに父島は東京都です!
戦跡ガイド板長の戦跡ツアーとは
このツアー内容の前に、「戦跡ガイド板長の戦跡ツアー」についてザックリ説明しますね。
戦跡ガイド板長さんについて
戦跡を通し、小笠原の戦争を語る、語り部の駆者的存在、板長さん。
現在、小笠原諸島・父島で戦跡発掘、整備をされており、小笠原の戦争、戦跡にとてもお詳しいお方です。
更に、小笠原の戦争を経験された各地におられる方々との交流を続けており、その方々の当時の小笠原での体験・記憶を語り継いでくれています。
実は、80歳で引退しようと思っておられた様ですが、色んな所から引退を惜しむ声が多数あったようで、現在も戦跡ガイドを続行している感じだでした。
いつかは来る引退の為に、お弟子さんが何人かいらっしゃるようです。
板長さんに戦跡ガイドをお願いしたい場合は、出来るだけお早目に!
なぜ…板長?本名なのかな?
否!本人に尋ねた所、「板長」はビジネスネームで、由来は前職が板前さんだったからだそうです。
戦跡ツアーについて
私は、父島の戦跡が見たい!とい熱望を小笠原ツーリストさんに伝え、小笠原ツーリストさんがご手配して下さり、ご縁があって「戦跡ガイド板長の戦跡ツアー」に参加させて頂きました。
旅行会社を通さずとも直接予約が出来るようです♪
因みに、「1日コース(税込8,000円)」と「半日コース(税込5,000円)」の2種類あるようです。
私は、「1日コース」で、しかもお弁当とお茶付きでした♥
戦跡ツアーの注意事項
夜明山エリアは、小笠原諸島森林生態系保護地区に指定されています。
その為、認定のガイドさんや入林許可証を取得している方が一緒にいないと立ち入ることができないそうです。
もし、無断で入るとレンジャー(自然保護指導員の通称)の方々に見つかり連行されるそうです。。。処罰の内容は判りませんが。。。
それから、戦跡は誰のモノでもありませんが、後世に語り繋ぐ大切な戦争遺品です。
そんな戦跡を荒らしたり、壊したり、持ち去る方々が後を絶たないそうです。
板長さんたちが戦跡を発掘し、整備し綺麗に保たれているのに。。。
こんな悲しい事はありません。。。
皆様は絶対にそのような悪事を働いてはなりません!
大切に見させて頂きましょう!
戦跡ガイド板長の戦跡ツアーのレポート
早速レポートへ参ります。
本当に良かったツアーです。感動モノですよ!
伝えきれない事ばかりなので、詳しく知りたい方は、是非父島へ!
戦跡ツアーの流れ
9:00 お迎え
板長さん自ら、車で宿泊先まで迎えに来てくれます。
第一印象「ヤバいツアーに参加してしまった」と思いました(笑)
初見の板長さんと車内の雰囲気が物々しい感じで、無礼は働かないよう努めよう。と心に決めました。
しかし、ツアーが始まると「前言撤回!」って感じで、時折出るお茶目なトークには笑いがある◎ユーモアたっぷりな板長さん。でした^^
9:30 小笠原の戦争について
小笠原の戦争の作戦についてなどについて語ってくれました。
10:00 夜明山戦跡探訪開始
トレッキング並みに森道を歩きます。
体力に自信がない方は、予約時にご相談してみましょう!
いざ夜明山へ!
こんな感じの森を歩きながら、戦跡を辿って行きました。
軍の方々もこんな感じでこの夜明山を歩いていたのでしょうか。。。
弾痕がついた木たち
至る所に弾痕がついた木たちがあります。
どれだけ激しかったのか、想像がつくほどです。
旧陸軍の7.5センチ山砲 (大日本帝国陸軍四一式山砲)
旧陸軍の7.5センチ山砲(大日本帝国陸軍四一式山砲)がそのまま置かれています。
八八式七糎野戦高射砲とタイヤ
結構険しい。。。ロープを掴みながら穴の中へ…
辿り着いたのは、八八式七糎野戦高射砲(はちはちしきななせんちやせんこうしゃほう)とタイヤなどが置かれている場所でした。
八八式七糎野戦高射砲には刻印がありました。
上段には「八八式七糎野戦高射砲」と下段には「昭和十六年製」と刻まれています。
見えますかね…?
タイヤにも「NAIGAI(内外ゴム)」や「Goodrich(グッドリッチ)」とメーカー名が今でもハッキリと読めます。
トーチカの外に出ると…濱江丸(ひんこうまる)が鎮座する境浦海岸付近が一望できます!
大自然と戦跡のヒュージョン!美しいと思ってしまいます。。。
海軍の発電所
中に入り…天を仰ぐと…
美しい画(絵)が見えます。
これぞ、自然と戦跡の美しいハーモニー♪
発電所を出て進むと…
石造りの壁があります。
その壁は円形になっていて、小さなお部屋みたいなコンクリートの壁もあります。
すみません。。。ここがどんな所なのか聞きそびれてしまいました(´;ω;`)
過去、日本のNHKやアメリカのABC、イギリスのBBCなども取材に来たそうです。
彼らがこの石造りを見た時、「何故、ここまでの技術を持っていた日本が戦争をしたのか?」と疑問を抱く方が多いそうです。
その度に板長さんはこう言うそうです。
「日本は島国で、資源には限界がある。徐々に人口が増え、日本国は日本国民を食べさせていくのにこの国内の資源、物資だけじゃ無理だった。その資源や物資を獲得しようと他国と取引しても、制限があり中々うまく行かない。当時はやむを得ない業況だったのかもしれません。」と。
話を戻して。。。
先ほど、コンクリートのお部屋の上に置かれていた戦跡たちもご紹介。
左側から、大日本ビールの瓶(一升瓶)、大日本帝国陸軍の一つ星マークが入った食器、12ミリの薬莢(やっきょう)、コンマ7ミリの薬莢(やっきょう)、小型爆撃機(P-51 マスタング、またはムスタング)の機銃弾、連合軍が打った薬莢(やっきょう)です。
大日本ビールの瓶には、水が入っていたそうです。
父島と硫黄島は土を掘っても井戸水は出ないので、横須賀の晴美町(三浦市)から水が入ったこの大日本ビールの瓶が持ち込まれていたそうです。
国防婦人会(晴美の婦人会)の方々が毎日、大日本ビールの瓶に水を入れ、その瓶を潜水艦や軍艦に詰めるだけ詰めて、軍港に届け、父島と硫黄島の兵士たちに配られていたそうです。
昭和19、20年に作られた薬莢は、真鍮じゃなく鉄で出来ていて持ち上げようとすると崩れ欠けてしまうくらいもろかったそうで、それほど当時は資源がなかったと窺えます。
写真の薬莢たちは作られた年が古いから姿かたちがあるそうです。
日本は鉛も鉄がなくなった後も、弾(火薬)のない薬莢、所謂、模造弾を組み立てて使用して、戦っていたようです。
ナパーム弾で割れて溶けて固まった一升瓶たち。
どれだけ激しい爆撃だったのか、、、
20ミリの空薬莢もあったようですが、残念ながら何者かに持っていかれてしまったようです。。。
こうした貴重な戦跡を荒らしたり、盗んだり、壊したりする人が後を絶たないと言っておられました。
私利私欲の為だけに、板長さんたちが発見し整備し続けている大切な戦跡を粗末にしてほしくはないです!
何故そこにあるのか?綺麗に整備されているのか、しっかり考えて行動してほしいです。
砲台跡円卓のち会議場
初めは、四十口径八九式十二糎七高角砲(よんじゅうこうけいはちきゅうしきじゅうにせんちななこうかくほう)、通称:12.7センチ高角砲が置かれていた場所だったようです。
しかし、横浜が出来てからは、12.7センチ高角砲を解体して横浜に移動した模様。
そのあと、サンゴ礁を焼き砕いて土台を作り、父島全体の地図を作製し、更に庇(ひさし)を作って会議場に再利用されたそうです。
ここで隊長、作戦参謀、各砲台長、各分隊長たちが集まって会議を受けていたようです。
その証拠に、各部隊の旗を掲げる針金が2か所、辛うじて残っていました。
発電所
どの方角から風は吹いても、中にたまった排気ガスや温まった空気などが抜けるように、両サイドに大きな穴が開いています。
こちら昭和9年に建てらた石造りの建物らしいです。
当時の日本の技術の高さが窺えます。
中もすごく手の込んだ造りになっていました。
四十五口径十年式十二糎高角砲
またまた険しい穴の中へ…
穴の奥へ入っていくと…
四十五口径十年式十二糎高角砲(よんじゅうごこうけいじゅうねんしきじゅうにせんちこうかくほう)、通称:12センチ高角砲があります。
さて、12センチ高角砲の元でお昼を頂きましょう!
兵隊さんになった気分です。
お昼に食べたSUNYOさんの赤飯の缶詰です。
板長さんがご用意して下さっていました^^
初めて見たのでビックリ!
意外と美味しかったです♥
ランチが終わったら、進みます!
蛸壺(たこつぼ)
昭和20年、小笠原では、海軍通信隊本部豪で全将兵のトップ200人以上を収集して、どうやって父島を死守するか会議したそうです。
そこで出た結論は、1人1つの穴を掘り、敵を1か2人、3人以上を倒してから自分を絶つという作戦でした。
その為、終戦まで穴掘りをしていたので、至る所に蛸壺(たこつぼ)や塹壕(さんごう)などが沢山、夜明山にはあるのだそうです。
なんとも悲しい結論です。
蛸壺(たこつぼ)の跡があんまり写真ですと解りずらいですね。
すみません。。。
7.5センチ加農砲(カノン砲またはキャノン砲)
こちらの建物に入っていきます。
入口はもっと大きいですよ!
小さな窓?がありますね。
窓を建物の中から覗いたらこんな感じでした。
進んでいきます。
建物中を歩いていると、様々なモノが置いてありました。
資生堂の歯ブラシ!?
刻印見えますかね??
更に進んでいきます。
1門の7.5センチ加農砲(カノン砲またはキャノン砲)が水溜りに浸り、幻想的な写真が取れました。
更に進むと…
もう1門の7.5センチ加農砲(カノン砲またはキャノン砲)!
湾の中に入ってきた敵の船を迎え撃つ感じだったようです。
バラバラですが、駆逐されて鎮座している姿がすごく尊いです。
部隊(香川隊)の居住区の跡
香川県に集結して、小笠原へ派遣されたので「香川隊」と言われていた部隊だそうです。
その証拠に、右上の黒いやかんには「香川」と書かれています。
スコップがあったようですが、いつの間にか誰かに持ち去られたようで。。。
「また窃盗かよ!」って心の中で叫んじゃいました。。。
水がなくなった時、スコップで谷間に穴を掘って、ポンプ(写真一番右)で地中の水を吸って集め、その水を沸かして、真鍮のやかん(写真のエメラルドグリーン色した錆びたやかん)に注ぎ込む。
その時、水が変色したら飲んではいけない水だと判断していたらしいです。
凄い知恵です。。。
トロッコ敷き連絡豪(トロッコレール豪)
ここから入ります。
トロッコ敷き連絡壕(トロッコレール豪)の中もとても暗い。。。
しっかり線路が造ってあります。
しばらく進むと、行き止まりが見えてきます。
ここの時点で、終戦の放送が流れたみたいです。
終戦後、軍は片付けをして撤退したらしいです。
機関砲陣地跡
この海で、後に第41代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュ(ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ)中尉の搭乗したアメリカ軍機が対空砲火で撃墜されたようです。
彼は運よく仲間の部隊に助けられ、命は助かったようです。
もしあと2時間助けが遅かったら、彼は生き延びる事なく、大統領にもなる事はなかっただろうと語ってくれました。
何だか凄い。。。ドラマの様なストーリーですね!
15:30 夜明山戦跡探訪終了
夜明山での戦跡ツアーは終了です。
首無し二宮尊徳(二宮金次郎)像
首無し二宮尊徳(二宮金次郎)像がありました。。。
少し不気味ですね。。。
元々は大村尋常高等小学校の二宮尊徳(二宮金次郎)像で、昭和19年頃に旧軍により通信施設の敷地内に移動されたようです。
それから戦後、米軍の管理の下、小笠原の人々の生活が始まり、昭和43年に小笠原諸島の返還がなされます。
その昭和43年以前に駐留していた米軍兵士が二宮尊徳(二宮金次郎)像の首から上を帰国の際に持ち帰ったようです。
何故?と言いたくなりますが💦
16:00 送迎
板長さんが宿泊先まで車で送って頂きました^^
帰りにお土産まで頂きました!
習字お上手ですね。
習字しながらお酒を飲んでいるとお母ちゃん(お妻さん)に叱られるって仰っていました。
可愛いノロケですかね♥
折り紙はリハビリで折っているんだとか。。。
手先など不自由なのでしょうか…ちょっと心配でした(´;ω;`)
戦跡ツアーで感じたこと
ここではあまりお話出来ませんでしたが、板長さんの戦跡ガイドでは、その場所場所で、そこで起こった小笠原の戦争のノンフィクションを語ってくれます。
他には体験できない内容のツアーでとても感動しました。
私たちが知らない、その場所での実話。
まるで小説でも読んでいるかの様な感覚で頭に入ってきます。
しかし、これは実際に起こったストーリーで、日本とは?戦争とは何か?と考えさせられます。
板長さんの言葉で「日本は道徳の国」というセンテンスがとても印象的でした。
「日本は対等でない戦争はしない。」
この言葉の意味って、とっても深い気がします。
きっと、人それぞれ感じ方が違いますが、この「戦跡ガイド板長の戦跡ツアー」はとってもオススメです!
戦跡は私たち日本人の大切な戦争遺品です!
絶対に持ち帰ったり、壊したりしないで下さいね。
ガイドさんや入林許可証が必要なエリアなので、簡単にそんな事出来ない気がするのですが。。。ね。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
「戦跡ガイド板長の戦跡ツアー」の魅力、解って頂けましたでしょうか?
小笠原諸島・父島へ旅行の際は、是非日本の歴史について学んではいかがでしょうか^^
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」 と言いますしね^^
ではでは~See You Soon♪
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